【自書エッセイ】ましてや本格ならなおさらだ ロジカ・ドラマチカ
2023年7月23日
(初出「小説宝石」2023年7月号、一部改稿)
私がケメルマンの「九マイルは遠すぎる」を読んだのは、実は商業作家となってからのことだ。
手許のハヤカワ文庫の表4にある如く、これは〝短い文章だけを頼りに〟〝純粋な推理だけを武器に〟〝難事件を解き明かしてゆく〟〝本格推理小説のエッセンス〟とされる。
他方で私は超長編を得意とする……事実上それしか書けぬ……歪な作家だ。短編ほど不得手なものはない。まして公務員時代は『副業』認定を恐れること甚だしく、よって雑誌連載≓短い商品の頻繁かつ継続的な納品も忌避してきた。端的には、ほぼほぼデカダンな巨編のみを著す作家人生を過ごしてきた。
ところがある日……既に6年もの昔日だが……絶対に断れぬ依頼により、書き下ろしの短編を納品せねばならぬ仕儀となった。ましてやそれに、本格ミステリとしての特殊な趣を凝らす義務も負った。要は、もろ苦手科目のコマでもろ得意科目の技倆を披露せねばならなくなった。不幸中の幸いは、私が独創的な天才ではないこと……先人の『型』を本歌取りする凡人であったことだろう。よって私は素直に『九マイル』を初読しその教えを請うた。結果、私はケメルマンにこの上なく感謝した……
何故ならばそれは厳密な意味での本格ミステリ〝ではなかった〟からだ。具体的には例えば、証明に必要な事実の後出しジャンケンがあったからだ。無論このことは『九マイル』が珠玉の逸品であることを否定しない。ただ遊技のルールとスタイルが私の信条と違っただけだ。なら私の目指すべきものは、ケメルマンが敢えてそうしなかったベクトルへ……証明に必要な全ての事実を開示してから勝負するスタイルへと換骨奪胎することでしかない。換言すれば、私の責務は『九マイル』スタイルの本格原理主義過激派‐化だ。これすなわちフェアネスの徹底、伏線処理の徹底、論理的必然性の徹底……無論、勝負性の徹底。
〝全ての手掛かりは事前に開示してある〟
本書『ロジカ・ドラマチカ』についてこう断言できるのは、まこと本格作家の本懐である。(了)
【本サイト版補遺】
1.エッセイ本文中の「後出しジャンケン」の例としては、舞台となる町の地理的状況、利用可能な公共交通機関のタイムテーブル等がある。
2.表1イラストは「天国三部作」に引き続き爽々さん。今般は当初、usiさんのような艶やかでとろりと美しい塗りにしていただこうかと思っていました(理由は下記4参照)。ところが1テイク目でルーベンス、ベラスケス、ドラクロワの様なまさにDrammaticaな作品を送っていただき、そのあまりの荘厳さに後頭部をぶん殴られたような感嘆に襲われ……もとより1テイク目で意見なしお任せ。なお私が最もこだわっていたポイントは実は「瞳」でしたが、何の事前打ち合わせもなかったのに期待を遥かに超える描き方をしていただき、ホント吃驚です(本書を読み込んでいただいていることが解ります)。
3.表1題字を手書き風にしようと版元さんに提案したのは私(題字の方はブックデザイナーさんの領分)。5案のうちから選びましたが、よりフェミニンな感じの案があれば更におもしろかったか……なお念の為、「ロジカ・ドラマチカ」なる表記は吹奏楽曲「イントラーダ・ドラマチカ」に倣ったもの。イタリア語としては「ドランマティカ」でしょうか。
4.本書収録の各作品のプロトタイプは、2017年に発表した短編「あとは両替にでも入るしかないか」である。同年の短編集「天帝のみはるかす桜花」(講談社ノベルス)の第4編として収録されている。上記1でusiさん云々とあるのは、この「天帝のみはるかす桜花」の表1イラストがusiさんの作品だからだ。ただその第4編たる「両替」と本書「ロジカ」とに、物語上の関連は一切ない(例えば前者は天帝世界作品ゆえ内務省警視正が登場し、後者は現実世界作品ゆえ警察庁警視正が登場するなど、決して世界線が交わらない)。とまれ「両替」は別段、天帝世界を用いる必要のないニュートラルな作品であった。よって、古野流九マイルをもう一編たのしみたいとお感じの方に御紹介しておく。
5.エッセイ本文中の「絶対に断れぬ依頼」の「絶対に断れぬ」とは、当時刊行予定であった長編「天帝のあかねさす柘榴」が……私の持病というか障害の悪化により……納品不可能となったため、その代替・償い等として、契約当事者双方の合意により、上記短編集「天帝のみはるかす桜花」を納品する絶対の義務を負った経緯を意味する(物理的に短編しか書き得ない病状にあった)。この経緯により上記「両替」が生まれ、この経緯により本書「ロジカ」が生まれたのは不思議なことである。
なお当時、当該「柘榴」について2018年初夏発売との告知がなされたが、無論私はそのような告知に反対した。軽からぬ病者として当然である。また上のとおり、既に代替・償いの作品を納品し終えている経緯からも当然である。ところが結果として当該告知がなされるに至ったのは、当時の担当氏が「告知だけでも」「タイトルだけでも」「読者が期待していますから」等と強くお求めになったからであり……業界にまつわる大人の事情もあったろう……よって私が「そこまで強硬にお求めならば」「予定は未定だという意味なら可」「書ければ書く、具合がよければ書きたいという趣旨なら事実」等と言い置いたからである。
ちなみに、その後いっさい、今日こんにちに至るまで当該告知に係る作品の御発注を頂戴してはいない。御依頼そのものがない。ミリもない。その後私が当該版元さんから書き下ろしの御発注をいただいたのは、ノンシリーズ本格及び警察小説となっている(当サイト「HISTORY」参照)……いや、素人でも解るノベルスや四六の地合いからしてそれは当然そうなろうが、なら何故あれほど告知にこだわったのか……とまれ今日こんにち、いまだなお熱心な御発注をいただいているのは他の版元さんの2長編のみ。それも所労ゆえ二の足を踏んでいるが、そもそも御発注そのものがないのは所労云々以前の話、著者の責任云々以前の話である。発注なくして商業小説は世に出ない。当然のこと。
これ、当事者以外にとっては実に下らないことですが……しかし当事者が事実を書き置かないことには、当事者も吃驚の喫煙所的/給湯室的ファンタジーが世に横行するため、せっかくですからこの機会に軽く触れておきます。
6.本書の自評として、第3編「秋の章」は苦しい。本質的に短編作家でない私としては、起承転結の起承結はどうにかなっても「転」は苦しかった。何故なら「転」はアイデア勝負だからである。しかし私は発想力に乏しい。要はビックリが苦手だ。私はミステリ作家でありながら「ミステリにビックリは不要」、正確には「トリックによるビックリは不要」とまで考える者である(いやロジックによるビックリ、なる概念もありえましょうが……それはむしろ「美しさ」であって、ビックリドッキリとはちと違うのでは……例えば数学の証明にビックリドッキリはいらんでしょう。まあこのあたりは神学論争ですが)。
ともかくも短編となると、まして連作短編の「転」となると、それは転なのだからどうしてもビックリドッキリが必要となる。そのビックリドッキリの魅せ方も、アッと驚くワンアイデア・ワンノベルになりがちだ。ところがどうして、ワンアイデア・ワンノベルほど私が忌み嫌うものはない。私の信条として、重ねて私個人の宗教的信条として、それは読者と本格への侮辱である。さて第3編「秋の章」がどう仕上がったか、アイデアとロジックパートの不協和音をたのしんで(?)いただきたい。
7.私の信条として、本格ミステリというのは証明問題であり勝負だ。また私による本格ミステリの定義と絡むが……神学論争ゆえその中身には触れない……全ての証拠・手掛かりはいわゆる読者への挑戦状の直前までに開示されていなければならない。その本に「実際に挑戦状が挿入されていようといまいと」だ。これを本書について言えば、「謎のワンセンテンス〝Tx〟が登場人物の間で出題内容として共有される時点」までに全ての証拠・手掛かりが開示されていなければならない。こうなる。
ただ、これを例えば本書第1編「春の章」について言えば、小説全体の約5分の1、20.1%の内でありとあらゆる証拠・手掛かりを開示しておかねばならない。こうなる。飽くまでも「私の場合」で「例えば」だが、20.1%なる紙幅で全ての伏線を展開し終えねばならない……
いや、これこそが実は「九マイル物」の険路にして本格ミステリの険路である(上記1記載のとおり、本家本元ケメルマンですらそのような悪路は用いなかった)。というか、そもそもそんなことをやろうと思う作家がいないという意味で奇行・愚挙の類である。だからやるんですが。
(了)